第二十一回 苦悩の東京進出
■レギュラー番組がいきなり17本!
――
前回は、『テレビのツボ』で人気が出て、次第に東京からもオファーが来はじめた、というところまでお話を伺いました。東京に転居されたのは、いつ頃ですか?
ぜん
『テレビのツボ』が帯番組から週イチになった頃ですね。
――
『週刊テレビのツボ』ですね。この番組のために大阪に帰ってくるという感じでしたよね。往時のぜんじろうさんは破竹の勢いでしたね。
ぜん
え? そうですか? そう見えてました?
――
見えてましたよ〜。関西ローカルの深夜番組から火が点いて、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『アッコにおまかせ!』などBIGな番組のレギュラーが次々と決まって。“サクセス”をあれほど間近で見たのは初めてでした。レギュラーは何本あったんですか?
ぜん

当時は17本ありましたね。

――
じゅ、じゅ、じゅうななほん!! 超売れっ子じゃないですか。千葉麗子さんとラジオもやっていましたね。
ぜん
*『夜のおもちゃ ぜんじろげっ!』ですね。
――
あと飯島直子さんと、お昼の番組もやってらっしゃいましたよね。
ぜん
『東京ジュニアJUNK』ですね。あの番組、「また来週〜」言うたまま、来週がなかった(笑)。
――
僕も、「今週はあるかな?」って10年待ってるんですけど(笑)。東京進出は、ご自身の意志だったんですか?
ぜん
いや、ま、「自然にそうなった」んやろうと思います。東京のレギュラーが増えたので、「じゃ、次は東京やな」みたいな。大阪で一緒にやってたマネージャーが結婚退職するので、「この機会に東京吉本に籍を移しましょうか」という流れがあり。当時は大阪吉本と東京吉本の連携がまだできてなくて、東京に籍を移すということは、大阪吉本から離れるということだったんです。そう、自分の意志というより、流れですよね。
――
言わば栄転というより、他社に移るという感覚だったんですね。
ぜん
そうですね。実は僕、東京に行くということを、そない大層に考えてなかったんです。軽〜く考えてました。吉本というバスに乗せられて東京に行って、レギュラー番組が用意され、そのままやっていけるんやろう、と。
――
「東京で一旗挙げたるぞ!」じゃなく、「ま、いけるやろ」みたいな感じ?
ぜん
そうです。階段をのぼるように、トーントーンとね。でも……そう甘くはなかったですよ。
――
レギュラーが17本もあったら、将来は安泰だと考えても仕方ないですよ。
ぜん
いや、東京でレギュラーがあるって言うても、『テレビのツボ』で人気が出たっていう噂が先行して起用されただけでね。ちゃんと“お笑い”ができてなかったですから。それこそ当時の大阪は千原兄弟やジャリズムみたいにちゃんと“お笑い”をやってる人たちがいて、僕は言うたら“司会”じゃないですか。情報番組のね。僕自身が「面白いか、面白くないか」で言うたら、面白くないですよ。「笑えるか、笑えないか」で言うとね。
――
いや、決してそんなことはないと思いますよ。
ぜん
いやいや、自分でもわかるんですよ。知名度はあがっても“人気”はないんですよ。
――
う〜ん。
ぜん
実際に東京のテレビに出るとね、知名度で起用してくれてはるから、僕に何をさせたらいいか、何を求めてるかがバラバラなんです。さんまさん的なことを求められたり、上岡龍太郎の弟子やっていうことで毒舌を求められたり。「これは、うまくいってないな〜」と思いましたね。
■されどライブの観客はたった30人……
――
僕は当時大阪に住んでいたので、「知名度はあるけれど人気はない」というのがよくわからないんです。心斎橋のクラブクワトロでのライブが超満員だったり、梅田花月シアター(現:うめだ花月)での単独ライブを何度も成功させているぜんじろうさんをずっと見てきたので。
ぜん
いや、東京吉本からも、「こんな早くに司会キャラになってもしょうがないから、ここらへんでワケのわからんことしとけ」って言われて、ライブをやったんですよ。そしたら観客は30人ですわ。
――
う〜ん。確かにレギュラーが17本もある芸人さんのライブが観客30人というのはキツイですね。
ぜん
そんときに初めて、「あ、これはイチからやりなおしや」と思いましたね。東京でやっていくことは、甘くないと。
――
よく芸人さんが言う「お笑い筋肉」が落ちてる、という感じだったんでしょうか。
ぜん
そうです。僕は当時、やっぱり“司会”“タレント”として東京に呼ばれたんやと思うんです。「楽しい人」っていうね。でも、ちょうどその頃、ダウンタウンの松本さんの人気がものすごあがって、それで世間が“笑い”というものに目覚めたんですよね。「楽しい」より「面白い」ことのほうが大事だと。松本さん人気の急上昇でによって「天才」が求められるようになってきた。
――
松本さんが『遺書』をお出しになった頃ですね。それまでダウンタウンは充分人気があったけれど、あの本によってカリスマになりましたもんね。
ぜん
『遺書』にも書いてあるじゃないですか。社交的なだけじゃダメ。「面白くない=ダメ」なんです。あの方からすると、僕なんて0点ですよ。0点タレント。0点。
――
あの、今日、どうしはったんですか?(笑)。ぜんぜん0点じゃないですよ。それは自虐しすぎかと……。
ぜん
東京に行って、わからなくなったんです。もともと自分はアナーキーと言われるような、ちょっとゲリラ的な要素を持ってるじゃないですか。ラジオ関西の番組にインド人を仕込む男ですよ(笑)。『テレビのツボ』のなにが良かったって、そういうキャラクターを知ってくれているうえで、「そのキャラクターは殺してくれ。“関西一のええ兄ちゃん”で行ってくれ」って言われたこと。だからやれたんです。でも東京だと、いきなりメジャーなことを求められる。
――
素地を知らないまま。
ぜん
そうなった時、スタッフからも、「あれ? 求めていたキャラクターと違うなぁ」ということになりますよね。そうすると、僕も楽屋に籠ってしまうわけです(笑)。現状がうまくまわってないことを伝えようにも、マネージャーもまだ新人でね。とりあえず入ってきた仕事はみんな入れる、みたいな状態で。
――
東京と大阪の現場の違いって、どこですか?
ぜん
大阪は、テレビ番組もラジオなんです。自分のマイナスな部分を出しあって、話をして笑う、みたいな。僕はラジオ出身なんで『テレビのツボ』はやりやすかったんですよ。だって『テレビのツボ』って、言うたらラジオじゃないですか。喋って喋って、深夜にみんなで長距離走的な笑いを作るっていう。
――
わかる気がします。『なるトモ!』を初めて観た東京の人が、「朝っぱらから、なにをこんなに喋ってるの?」って驚いてましたもの。それが新鮮で面白いという人もなかにはいたけれど、多くの人がそれに拒絶反応を示してましたね。僕らにはそれが普通なんですけど。
ぜん
東京でやっていくのに重要なのは、瞬発力、短距離を走る力なんです。そのへんの筋肉の鍛え方は違いましたね。大阪みたいにどっぷり自分のマイナス部分をネタにして笑いを取る、みたいな感覚はぜんぜんなかった。もう、プラスの、それも短いコメントでコミュニケーションを取っていく感じなんで。
――
いまでこそ失敗談や自分の負の部分をトーク番組で晒して、それを「オイシイ」という感覚が東京の番組にも根付きましたが、90年代ではそれはまだなかったでしょうね。でも、大阪では考えられないBIGに出会うことも多かっただろうし、勉強になる部分は多々あっただろうと思うんです。どなたか影響を受けられた方はおられますか?
ぜん
やっぱりビートたけしさんですね。会うてみて、「ああ、この人は日本一のヒーローや」と思いましたね。
   
 レギュラー番組17本という、ありえないほどの高待遇のなか、それでも「東京と大阪の違い」「求められているものと自分の芸風の違い」に悩み続けたぜんじろう。そんななかで支えてくれた、人情に厚いふたりの男がいた。次回、ビートたけし&テリー伊藤との邂逅、『元気が出るテレビ』裏話をお楽しみに!
  *『夜のおもちゃ ぜんじろげっ!』
 かつてニッポン放送でやっていた3時間のラジオバラエティ。パーソナリティはぜんじろう、千葉麗子。番組をきっかけに「ふたりが付き合っている」という噂が立ち、千葉麗子の知名度をあげるきっかけとなった。この番組の台本を書いていた新進放送作家が、いまをときめく鈴木おさむ。
(以上、人名については敬称略)
 
TEXT■吉村智樹 テープ起こし■泡の屑 撮影■おーしま2号
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