第二十回 『屋台の目ぇ』が運んできたもの
■「ぜんじろう天狗説」の発端
――
前回、『テレビのツボ』と並行してやっていた帯番組*『屋台の目ぇ』の話が出たので、この番組についてお話いただきたいのですが。
ぜん
よろしくお願いします。
――
夕方と深夜、同時期に2本の帯番組の司会をやるなんて、画期的でしたね。昨年、みのもんたさんが「帯番組を2本やる」って大いに話題となりましたが、「そんなの、ぜんじろうさんがとっくにやってるよ」と思いましたもの。
ぜん
そんな大御所と較べなはんな(笑)。
――
ただ、精神的にも肉体的にも、きっと辛かっただろうと思うんです。
ぜん

僕より、スタッフの方がキツかったんとちゃいますか?

――
確かに、『テレビのツボ』と『屋台の目ぇ』はディレクターやスタッフがほとんど同じメンバーだったので、みんなノイローゼになってましたね。特に『屋台の目ぇ』は、揉めるんですよ。どこに正解があるのかわからない。どこに向かってる番組なのか、誰もわからなくなってたから。
ぜん
それをわかってはった*チロリンさんが、途中で東京に転勤されたっていうのも、あったんですかね。
――
それは確かにあったと思います。屋台だけ置いて(笑)。
ぜん
そんで屋台の揉め事が、ツボにも影響するでしょう。
――
生放送を週に2本。みんな忙しすぎて、目の前のオンエアをこなすのが精一杯。将来的なことが考えられないんです。だから屋台のピリピリ感が、ツボのほうに飛び火していく。共倒れになる危機感を抱かざるをえなかったですね。
ぜん
僕は身体はいっこもしんどなかったんです。ただ、屋台をやりだすようになってから、スタッフの方がえらい気を遣ってくれるんですよ。それが辛かったですね。例えば、『お飲み物は何になさいますか?』『あ、アイスコーヒーください』『お砂糖はどうされますか? フレッシュはお入れになりますか?』って訊いてきはる。なんやったら、フレッシュ開けて入れてくれる勢い。僕は放っておいてくれたらコーヒーを自分で買いに行くタイプなんです。そない気を遣ってくれんでも……。
――
夕方と深夜の帯番組ですから、とにかく誰もが心配したのは、ぜんじろうさんの健康、そして「壊れるんちゃうか」ということだったんです。それで気の遣い方がだんだん過剰になっていきましたね。
ぜん
いや、有り難いことなんですよ。ただ、企画を僕に相談しにきはるじゃないですか。いつの間にか『ぜんじろうを通さないかん』みたいなノリになってきて。そんなことないんです。スタッフの考えてくださったアイデアやから、なんでもやろうと思ってたんですよ。
――
でも、そうはいかなくなってきてましたよね。
ぜん
はい。『なんでもいいですよ〜』って答えるのは失礼にあたると思ったから、真剣に『この企画は、これはこうして、ここはこう、ここはこうしたらいいと思います』と意見するじゃないですか。そしたら、『この企画は立てなおしや。ぜんじろうは、こう言ってる』ってえらい騒ぎになったり。もう、だんだん現場に行くのが怖くなってきましてね。
――
たぶん、この番組の正解がどこにあるのか誰にもわからなくなって、ぜんじろうさんに委ねようとしていったんやと思います。ぜんじろうさんが出した答が「正解」なんやと。
ぜん
もっと怖いのがね、僕が企画に意見するじゃないですか。そしたら『態度が悪い』『偉そうや』『天狗になってる』って陰口を叩かれるようになっていって。いや、真剣に答えなあかんやろうと思ったから。
――
その陰口は、どこから耳に入ったんですか?
ぜん
あのぅ……、うちの師匠のマネージャーやってはった方がね、辞めて、屋台のスタッフに入りはったんですよ。その方に『オマエ、えらいワガママ言うてるらしいな』って言われてそれを知ったんです。いやもう、そんな、もうぜんぜん……違うんです。
――
「ぜんじろうは自分でアイスコーヒーにフレッシュも入れよらん」みたいな(笑)。
ぜん
なんぼでも自分で入れるっちゅうねん(笑)。
――
いわゆる「ぜんじろう天狗説」が出てきはじめた頃ですね。でも弁護するならば、誤解です。むしろぜんじろうさんは謙虚やったと思いますよ。憶えてるのがね、屋台で「どじょう掬いを習おう」っていう企画があったんです。憶えてはりますか?
ぜん
いやぁ、憶えてないです。
――
芸人さんにどじょう掬いさせるて、正直、寒い企画じゃないですか。リハーサルの時、ぜんじろうさんの顔が一瞬曇った。僕は「あ、キレるな」と思ったんです。
ぜん
え? あの、僕、もしかしてキレましたか?
――
いえ。ぜんじろうさんはグッと噛み含めるように「やります!」って言わはって、「この人、凄いな」と感動しました。おべっか言うわけじゃなく、本気で。
ぜん
あぁ、そんなことがありましたか。そんなええこと言うてましたか僕。……憶えてないです(笑)。
■なぜ? BAKUとジョイントライブ
――
内情的な話はここら置いておきまして、2本の帯番組の司会をされているうちに、「人気」という点では鉄板になってきたんじゃないですか?
ぜん
いや、それが、ぜんぜん(笑)。「関西で、えらい人気のやつがおる」っていう噂が東京や名古屋にも広まったのは確かで、実際に大阪以外からの仕事も増えだしたんです。「いま、ぜんじろうや!」って。
――
お! 遂に、ぜんじろうさんの噂が他の都市に?
ぜん
ただ、『テレビのツボ』は映ってないから、噂が先行してるだけ。呼んでくれる人も実際に僕を観たことはないんです。「人気あるらしい」っていう。それで一回、名古屋で、あるバンドと一緒にライブやりましてね。あれ……なんていうバンドやったっけ。ホコ天とかで人気のあった……。
――
ホコ天……。
ぜん
そうや! *BAKUですわ。BAKUとジョイントライブしたんです。
――
えー! BAKUとぜんじろうさんが?
ぜん
なんの関係があんねん(笑)。
――
意外すぎる組み合わせですね。
ぜん
公開録音番組だったんですけど、呼んでくれた側は僕のことは知らないんです。雑誌とかで「ぜんじろう」いう名前が最近よう載ってるから人気あんねやろ、いうだけのブッキングでね。僕のファンなんて誰もいないですよ。BAKUが出ていったら女の子が「キャァ〜」、僕が出ていったら「シーン……」(笑)。「あれ? ぜんじろうって人気あるんじゃないの?」「ぜんぜん人気ないじゃない」って言われて。そらそうですわ。
――
だって、人気の元となった番組が映ってないんですから仕方ないですよね。
ぜん
名古屋はまだいいんですけど、東京に呼ばれるようになってから、もっと悲惨でね。「いま、ぜんじろうってのが人気あるらしい。どんなことしてるか知らないけれど、顔が明石家さんまさんに似てるから、きっとさんまさんくらい人気があるんだろう」って勘違いされて呼ばれてね、ほんで。まんま『恋のから騒ぎ』みたいな番組をやることになって(笑)。
   
 『テレビのツボ』と『屋台の目ぇ』、ふたつの帯番組に歪みが生じていた頃、反比例してぜんじろうの知名度は全国に波及していった。かつて自腹で通っていた東京にも、遂に「呼ばれる」立場となったのである。次回、東京−大阪の往復生活を顧みる。
  *『屋台の目ぇ』(やたいのめぇ)
1993年10月4日〜1994年8月31日にかけて放送されていた関西ローカルの情報バラエティ番組(MBS毎日放送制作)。
放送は月曜〜金曜の16:00〜17:00で、放送開始当初は毎日放送本社玄関ホール、その他からの生放送。同局制作の深夜番組「テレビのツボ」と同じ出演者、ほぼ同じ制作スタッフという構成であった。番組内容がリニューアルされた1994年4月以降は同局地下スタジオ内からの放送で、一般がスタジオ参加できる公開生放送番組となった。当時人気の吉本若手芸人たちを日替わりレギュラー陣として起用していたことと放送時間の関係から、女子中高生を中心に支持を得ていた。街の書店で見つけたマニアックな雑誌を紹介するコーナー、スタジオ見学の女子中高生たちにその昔一世を風靡した芸人たちのギャグを教えるコーナーなど、内容はその日ごとの単発企画ものが中心であった。出演者の一人である大桃美代子に1994年当時流行していた歌をスタジオで無理やり歌わせるというコーナーもあった。また、この番組の一週間分の内容をまとめた「屋台のツボ」という番組が土曜深夜に放送されていたが、こちらは僅か3ヶ月で終了した。
【司会】
ぜんじろう/大桃美代子(月・火・水)/藤岡久美子(木・金)
【日替わりレギュラー陣】(1994年4月以降)
ベイブルース(月)/杉岡みどり、浦井崇(火)/水玉れっぷう隊(水)/しましまんず(木)/矢野・兵動(金)
【屋台中継】(1994年4月以降)
石野桜子/ぴのっきを

*『チロリンさん』
現:毎日放送プロデューサー浜田尊弘のニックネーム。アミューズのマネージャー業、放送作家を経てディレクターに。類稀な話術とタレント性でラジオやテレビ番組にも多数出演。

*『BAKU』(ばく)
日本のロックバンド。1989年結成、1992年解散。10代の素朴な感性に満ちた歌詞と、軽快なビート、やんちゃなルックスが、同世代の女の子達に支持されるが、1992年8月にメジャーデビューから約2年で解散した。代表曲は『ピーターパン』、『ぞうきん』など。
実質わずか3年間と短い活動期間ながら、バンドブーム全盛期を支えたバンドの一つとして強い印象を残している。
栃木県の高校3年生だった車谷浩司(ギター)、谷口宗一(ボーカル*一時期ベースも弾いていた)、加藤英幸(ドラム)、阿部浩之(ベース)の4人が1989年に結成。同年夏に原宿の歩行者天国(いわゆる「ホコ天」)に姿を現すと同時に人気を集め、同年12月にはインディーズからミニアルバム「ぼくたちだけの天国」をリリースする。ところがメジャーデビューが決定した矢先の1990年の年明け直後、ベースの阿部が交通事故で急死。このためバンドは一時活動停止に追い込まれるが、高校卒業後の同年6月にポリスターからミニアルバム「不思議なマジック」をリリースしてメジャーデビューすると同時にライブ活動を再開(ちなみにこのアルバムのレコーディングは阿部の存命中に行われている)。翌1991年2月にリリースしたシングル「ぞうきん」がヒットし、一躍人気バンドの仲間入りを果たす。同年には「聞こえる〜Power of Dreams」「DAY AFTER」と立て続けに2枚のアルバムをリリースするなど活発な活動を見せたが、1992年夏に「バクは夢を食べ続けなければならない」とのメッセージを残し解散した。
軽いノリで女の子ウケするビートポップバンドを続けていくことにメンバーが不満を感じ始め、事務所やレコード会社との軋轢が あったことも解散の原因。解散発表ライブ(予定外に発表してしまった)で車谷が「キレた!」のは有名な話。また、谷口は後談で「俺もやりたい音楽がみつかって、それが他のメンバーやスタッフと違っていた」と話している。若いバンドが激しく成長している時期にスターになってしまった故の出来事かもしれない。
(以上、人名については敬称略)
 
TEXT■吉村智樹 テープ起こし■泡の屑 撮影■おーしま2号
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